解説〜日本のやきもの
館長 室本 弘道
今では世界一ともいえる素晴らしい「日本のやきもの」が辿った歴史について、解説します。日本中の窯場を巡り歩き蒐集しましたので、色々なものが集まりました。以下「日本のやきもの史」と私の蒐集した現物とを関連させながらご紹介させて頂きます。
そもそも「やきもの」とは何かですが、可塑性粘土を高温で焼いたもので、土器:Clayware、陶器:Pottery、b(せっき):Stoneware及び磁器:Porcelainがあります。人はその利便性から約一万年以上前から使ってきました。暮らしに無くてはならないものなのですね。
さて、「日本のやきもの」を歴史的に年代を追って見ることにします。
縄文・弥生時代
日本最古のやきものは縄文土器で約一万二千年前にさかのぼり、紀元前三世紀までの時代です。
縄文土器は、現在でも日本や世界の多くの地に見られます。例えば、錦光陶苑(縄文複製高杯)やミャンマーの水がめのように、低火度の素朴な素焼き状態のやきもので、出土土器に縄文模様が付いているのが発端となって、縄文時代とよばれることは良く知られています。この時代の土器は基本的には深鉢形のものが多く出土されます。縄文中期には大型化し、粘土紐をつけた装飾土器、火焔土器は有名です。
また縄文後期には造形美溢れる亀ヶ岡式土器、津軽亀が岡焼(縄文風ぐい呑)があります。
これに続く三世紀までの時代が弥生時代の弥生土器ですが、生活必需品として貯蔵用、食器用、祭祀用に区分され使われました。
また平成十三年十二月になって、弥生時代後期(二世紀後半)の竪穴式建物跡から、粘土を二度焼いて固めた床と、「塼(せん)」と呼ばれるレンガを使った壁が発見されました。中国・後漢から朝鮮半島を経ずに直接導入されたものと考えられています。
古代
古墳時代に入っても、弥生時代の土器を受け継いだ土師器が日用品として広く使われました。また内外面に黒い煤をつけた黒色土器も登場しています。
この時代までに登場した、縄文、弥生、土師器、黒色土器はいずれも酸化炎焼成土器で、全て女性によって焼かれたといわれています。
これに対し、五世紀に朝鮮半島を通じて須恵器が登場します。これは轆轤を使い、穴窯により高火度焼成を行ない、最後に還元炎焼成された灰色、硬質のやきものです。古代においてこの須恵器は、前からあった土師器とともに生活のあらゆる場面で使われました。
奈良時代にはいり、釉薬を施したやきもの−瓷器(しのうつわもの)という−が現れます。中国唐時代に登場した唐三彩の影響を受けた奈良三彩、緑釉陶が日本最古の施釉陶器です。これらは主として、美しく貴重なもののために祭祀用に使われました。八世紀には白瓷と呼ばれる灰釉を施した高火度焼成陶器を愛知県の猿投窯(十一世紀に無くなる)が作りました。
古代から須恵器を生産した古い窯場でありながら、今日まで続いている窯を六古窯と呼んでいます。それは、順不同ですが、猿投窯の分身ともいえる愛知の瀬戸焼(御深井印花盃)、常滑焼(常滑抹茶碗)、それに岡山の備前焼(備前茶碗)−鎌倉後期に酸化炎に戻る−、兵庫の丹波焼(丹波天目茶碗)、福井の越前焼(灰釉ぐい呑)と佐賀の唐津焼(中里太郎右衛門 絵唐津ぐい呑)−これは桃山時代から−を指します。
この他にも能登の珠洲焼(炭化焼締燻焼ぐい呑)や、
近くにあって瀬戸焼と運命を共にする美濃焼(黒織部ぐい呑)も古くからの窯場です。
中世
平安末期から鎌倉、室町時代にかけては、昔の土師器、須恵器と釉薬を使った瓷器とが同時に使われました。土師器には瓦(遠州鬼瓦)も含まれ、かわらけ、ゆきひら等今日でも使われています。須恵器も中世では、伝統の黒い還元炎焼成を貫いた例が珠洲焼(珠洲筒茶碗)で、茶褐色の酸化炎焼成
を行ったのが備前焼(備前花生け)です。
多くの須恵器窯は十五世紀前半に姿を消しました。中世を彩るやきものは瓷器系統の窯です。常滑焼(窯変花生け)等の東海にある諸窯、その影響を受けた越前窯(灰釉ぐい呑)等の北陸諸窯と信楽焼(信楽壷)、丹波焼(壷銘「山椒」)があります。
また伝統の猿投窯を受け継いだ瀬戸焼(鳴龍盃)は、前代の中国陶磁器の模倣品として青磁、白磁を生みました。十五世紀には瀬戸焼から美濃焼へと発展しました。
桃山時代
十六世紀、瀬戸、美濃ではこれまでの灰釉や鉄釉に加えて緑釉、黄釉、白釉(長石釉)が登場しました。これらは当時の千利休の茶の湯・詫茶と結びつき、美濃では黄瀬戸(黄瀬戸小花瓶)、瀬戸黒、志野(雪志野花瓶)などの桃山時代を代表する日本独自のやきもの文化が花開くことになりました。
またやきもの戦争ともいわれる文禄、慶長の役を契機として西日本を中心に朝鮮系の施釉陶器が詫び茶文化と絡み花開きました。朝鮮系窯業地には、唐津焼(絵唐津作太郎湯呑)、上野焼(上野茶碗)、八代焼(高田焼 櫻象嵌ぐい呑)、薩摩焼(苗代川焼 黒もんぐい呑)、萩焼(萩湯呑)があります。
また美濃焼人間国宝の加藤卓男氏の研究によって、桃山時代を代表する織部焼(美濃焼 織部抹茶碗)が、アラビアからベトナム(織部葡萄釉石灰壷)へ伝わり、美濃へ到来した事が明らかにされました。織部釉のやきものは、特に大名茶人
・古田織部の指導によるところが大きいと云われています。
また京都の低火度施釉である長次郎を始めとする赤
(赤楽茶碗)、黒
(黒楽茶碗)の楽焼も利休の好みとして今日に伝わっています。この直接の流れを受け今日に至っているものに金沢の大樋焼(大樋抹茶碗)があります。
江戸時代
江戸時代の大名茶人、小堀遠州の好みで「綺麗さび」の茶陶が各地に作られました。そのれらの窯地は遠州七窯と呼ばれています。北から静岡の志戸呂焼(祖母懐茶壺)、滋賀の膳所焼(綺麗錆茶碗)、京都の朝日焼(刷毛目茶碗)、奈良の赤膚焼(奈良絵茶碗)、今では無くなった
大阪の古曽部焼−三重の伊賀焼(古伊賀ぐい呑)とする説もある−、福岡の上野焼(上野抹茶碗)と高取焼(茶中筒)の七窯です。
江戸の窯業の中心地は、瀬戸、美濃、京都そして有田です。特に有田磁器の登場です。一六一六年に有田の李三平により日本初の染付磁器(有田焼 干支丑染付ぐい呑)に成功し、更に中国赤絵の影響から柿右衛門窯(色絵花瓶)へ、更に色鍋島の鍋島焼(色鍋島染錦花瓶)が藩窯として完成しました。そして西洋社会へと輸出されました。
今日では有田の三右衛門窯として柿右衛門窯(色絵花瓶)、今右衛門窯(橘絵ぐい呑)、源右衛門窯(干支丑染付ぐい呑)が有名です。西洋では伊万里焼と云われますが、これはやきものの輸出港の名です。この色絵磁器は十七世紀後半金沢の九谷に開窯された九谷焼(置物 雷鳥)も今日に至っています。
また京都では美濃系の色絵陶器が作られ京焼(銘「色絵吉野山」茶碗)となりましたが、なかでも野々村仁清の色絵陶器(藤花紋茶碗)、尾形乾山の琳派陶器
(琳派伊万里)、奥田頴川の色絵・染付・赤絵陶器(八郎手赤絵小杯)が青木木米(木米風鶴頸花瓶)たちによって全盛期を迎えました。
また瀬戸では尾張藩の政策によっててこ入れされ灰釉、鉄釉、御深井釉が東日本を代表するやきもの
である「瀬戸もの」として大展開することになりました。なお西日本では唐津焼が「唐津もの」として広く展開しました。
明治・大正
江戸の好景気は続かず、多くの窯が「まるもの」と云われる日用品を製作する窯を除き、哀れにも潰れて行きました。勿論辛い試練のこの時期を耐え抜き今日に繋いだ名窯もたくさんあります。
特に明治初期にこれまでの手作りの芸術品型から、西洋の技術を導入し有田焼の改良が、ドイツ人のワーグナーによって行われ、一八七五年有田に香蘭社(染付花瓶)、一九〇四年には名古屋に日本陶器(ノリタケ)が設立され近代陶磁器窯業が出発しました。
洋食器文化に支えられた西洋の方が進んでいたのですね。
一九二〇年には大量生産が可能なトンネル窯が導入され、一九一七年東洋陶器(TOTO−作品を見たい方はトイレでどうぞ!!−)や、一九一九年日本碍子(電柱には登らないでください!!)が設立されました。
また陶芸の分野では、現在に残る名品を創出された板谷波山・富本憲吉などの多くの陶芸家が生まれました。
昭和・平成
戦争の昭和時代は贅沢を慎み、量産品の日用品や軍杯(本サイトでも近日公開予定)の時代でした。一九二六年民芸運動の指導者、柳宗悦を長とする京都の河井寛次郎、益子焼の浜田庄司、バーナード・リーチたちのグループが丹念に全国を巡り、民陶を指導しました。
その後現在立派に活躍している民窯は数多くありますが、彼らの直接指導を受けたところに島根の湯町窯(ガレナ風杯)、出西窯(掛け合せ花瓶)、武雄の黒牟田焼(茶壷)、大分の小鹿田焼(飛鉋大皿)、鹿児島の龍門司焼(黒釉花瓶)
等があります。
また経済発展により日本人の中流意識が芽生え、仕事以外にも余裕が出るようになると、やきものも日用品から芸術品を求めるように変わり、数え切れないぐらいの窯が全国に誕生しました。特に一九九〇年代以降の陶芸ブームは中年婦人の支持を得て、今日でも根強いものがあります。いま北海道だけでも五百窯もあることをご存知ですか?